中野ってどんな街?~中野の今昔~

中野区役所前にあるお囲いの犬の像。五代将軍徳川綱吉によって犬を保護するためのお囲いが中野区につくられました。

中野駅などが整備され宅地化が進んだ。

中野ブロードウェイ。サブカルチャー発信拠点として懐かしさと新しさが融合する有名スポット。

■中野の昔1 ~物資の集荷地として発展~

慶長8年(1603年)江戸幕府が開かれるにおよんで、村々は整備され、中野郷は中野・本郷・本郷新田・雑色・江古田・片山・上高田・新井・上沼袋・下沼袋・上鷺宮・下鷺宮各村に分けられました。江戸城建設のための石灰を青梅から輸送するため青梅街道が開かれ、中野宿が置かれます。江戸中期以降は石灰輸送の役割は終え、多摩地域からの物資の集荷地として人々の往来も多く、江戸近郊農村として重要な位置を占めるほど発展しました。江戸中期以降は石灰輸送の役割は終え、多摩地域からの物資の集荷地として人々の往来も多く、江戸近郊農村として重要な位置を占めるほど発展します。元禄年間に、五代将軍徳川綱吉は「生類憐れみの令」をだし、江戸の野犬を収容するためのお囲いを、中野区につくりました。今の区役所を中心に28万坪もの広大なもので8万頭以上の犬が収容されたとつたえられています。綱吉の死後、廃止されますが8代将軍徳川吉宗によってその一部に桃が植えられ「桃園」がつくられました。江戸後期には庶民にも開放され花見スタイルの源にもなりました。 また、中野区地域は将軍家の鷹場としての性格もあり、宝仙寺・東福寺はその休憩所に指定され、桃園・上高田・中山(今の東中野区小周辺)に御立場(鷹狩りの本陣)があったことが知られています。幕末になると、中野区地域は物資の集荷地という特性を生かして、それらの物資を原料とした製粉業・味噌・醤油など醸造業が盛んになりました。このことは、製粉用の淀橋水車が、幕府の火薬製造に急遽転用されたことからもうかがわれます。

■中野の昔2 ~中野区の誕生~

明治22年(1889)には、町村制が施行され、中野・本郷・本郷新田・雑色の4か村か中野村に、江古田・片山・上高田・新井・上沼袋・下沼袋・上鷲宮・下鷲宮各村が野方村になりました。この年には新宿・立川間に甲武鉄道(今のJR中央線)が開通して中野駅ができました。いままでので青梅街道沿いとは別な新たな町が形成されるようになりました。このことにより明治30年(1897)に中野村は中野町になりました。交通機関の整備は宅地化を促進し人口も増加して、大正時代には、東京に隣接した高級住宅地としての性格も出てきました。そして、大正12年(1923年)関東大震災が起こり、その結果、東京の街は災害対策のため区画整理が開始され、郊外に向けて大規模な人口移動が開始されました。中野も野方地域に急激な宅地化がはじまり、翌年野方村は野方町に変わりました。昭和2年(1927年)に西武新宿線が開通して野方地域の交通網はほぼ現在のようになりました。昭和7年(1932年)には東京市の市域拡張にともない、中野町と野方町は合併し中野区が誕生しました。  その後、 太平洋戦争がはじまり、中野は約半分が空襲の被害をうけました。家屋や人命ばかりでなく文化財の多くもこの時に焼失しました。

(転載元:中野区立図書館デジタルアーカイブ 書名:たずねてみませんか 中野の名所・旧跡 著者名:中野区立歴史民俗資料館)

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中野区公式ページ

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まるっと中野

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